2012年5月28日月曜日

自由のある言動


 色々な制約の中でいかに自由度を上げていけるのかというのは、日々の生活の中では当然の行為として行われています。わかりやすい例では予算が少なくてもよりよいものをその中で作り上げる、或いは法律の範囲内で可能な限り何かを試みる(特に犯罪行為を指しているつもりはない、某政党の某元代表など)。等々、しかし、そういった次元のことではなく、特に心の中の自由に関してはどうだろうか。

 心の中は人には見えない。何をどう考えても自由です。しかし、その考えが言動に出ることを想定して考えてはいないのか。好きなようにやってくださいと言われると、内心では嬉しいような、でも困ったような気持ちになってしまう。自分の好き勝手な言動を、決して無関心ではなく人は認めてくれるのだろうか。『いいね!』のクリックは特に内容を考えることもなく、興味もなく、無関心であることを見透かされることを恐れ、そして、自分の言動に関しても何らかのリアクションを暗に要求しているだけであることが、実際には多いと感じているのは、私がひねくれ者だからなのか?

 自由であることは実は最も困難なことではないのか。だからこそそこにはヒトとしての価値が存在する。

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